廃藩後、市川家に継承

明治維新まで鍋島の窯元は鍋島藩に守られてきました。そして廃藩置県後その形態はすべて廃止となってしまいました。そこで窯元たちは藩窯から民窯へと移行することになりました。しかし、鍋島侯爵家の御用窯として土地、 細工所、構成人員の大部分は藩窯時代のまま継続されました。

鍋島家はこの御用窯を藩窯最後の細工所責任者であり、名画エとして技術のみでなく人柄も秀れていた市川重助にその代表者として運営一切の実権を与えました。

市川重助は明治31年、59歳で他界しますが、その長男、市川光之助が跡をつ ぎ、更にその末子である市川光山に受け継がれました。

第18代市川光山

市川光山は明治40年、藩窯の御細工屋敷跡地に生まれました。大正13年県立有田工 業学校図案絵画科を卒業、昭和3年京都美術学校(現在の京都市立芸術大学) 日本画科に入学。竹内栖鳳に師事し同校を卒業。

第2次大戦中でも市川光山の秀れた技術は、政府に認められ、昭和15年に佐賀県内では12代酒井田柿右衛門 と2人だけが、商工省より「伝統陶芸」の色鍋島技術保存者に認定されました。

また当時としては破格の徴兵免除の特典を与えられ、その技術を保護され美術作品を焼き続けることができました。

その作品は政府の司政用品として買い上げられました。

市川和光

18代市川光山は昭和57年1月に他界しましたが、光山の三男として生まれたのが市川和光です。

鍋島藩窯360余年の歴史をもつ佐賀県伊万里市の大川内で、御細工人の末裔として恥じない確かな技術と厳選した材料を使用し、色鍋島を始め、 鍋島天然青磁・紫紅釉(辰砂釉)など、多彩な作品の数々を生み出しています。